猪名野神社御由緒略記(全文)
ご祭神
《主》猪名野坐大神(素盞嗚尊,《配》誉田別尊,宇多天皇,醍醐天皇,源為朝,鎮西八郎為朝,豊臣秀頼)
当社は古く古くは「野ノ宮(ののみや)」「天王宮」「牛頭(ごず)天王宮」「祇園社」等称せり。野ノ宮と称するは猪名野ノ宮の意なるべし。祭神は猪名野坐大神と称して建速須佐之男命を祀る。其の創立年月は詳に知り難しと雖も、孝徳天皇の御宇既に猪名寺の地に在りしを、宇多法皇の勅願に依りて延喜4年(904)醍醐寺開祖聖宝がこの地に勧請せしものなりと云ふ。
其の後久安6年(1150)、鎮西八郎為朝此の地に暫く宿して、当社を重興せしより伊丹氏外武門の崇敬篤かりしも、天正年中(1573~1591)荒木摂津守村重が逆乱の時、社殿悉く兵燹に罹り什宝縁起等も残らず焼失せり。
後文禄年中、千僧村願成就寺中地蔵坊に在りし長照法印野ノ宮寺に入寺するに及び慶長6年(1601)、豊臣秀頼の命によりて再興す。ついで寛文元年より伊丹の地は近衛家の所領となり、当寺別長照の後を受けたる長賢を経て宥尊の代、貞享2年(1685)の出願、同年本殿并玉垣再建の上棟をなし、同時に幣殿を新に建つ。これ現今の建築にして近衛基熙の造営にかかる。
斯くして明治2年(1869)に至り、神仏分離と共に野宮牛頭天王を猪名野神社と改め、明治6年(1873)郷社に同14年(1881)県社に加別、同33年(1900)従来祭神を猪名野大神と称し来りしを猪名野坐大神と改称す。
会計法適用指定年月日
明治四十二年一月八日 兵郡社兵第一号
神饌幣昂料供進指定年月日
明治四十四年三月二十四日 兵甲社第一五号
境内神社
神明神社
祭神 天照皇大神、
おおとこぬし
大地主神社 (俗に戎社と称す)
ことしろぬし
祭神、大国主神、 事代主神
新宮神社 (俗に三社と称す)
おほやまぐひ つつのを
祭神、天児屋根命、大山咋命、三筒男之命、
天満神社
祭神、菅原道真、
厳島神社 (俗に辨天社と称す)
きよりぴめ いちきしま たぎり かな たぎつ
祭神、佐依毘賣命、 市杵島姫尊、 多紀理毘賣命、金山彦命、多杞都賣命、
愛宕神社
かぐづも
祭神、火之迦具土神、
さだひこ
佐田彦神社
づみ
祭神、大山祗命、佐田彦命、宮比賣命、
稲荷神社
うがのみたま
祭神、宇迦能御魂神、
相殿社 (俗に裏御未社と称す)
貴布弥神社
みづほのめ
祭神、罔象女命、
塞(さゐ)神社
やちまたひこ ひめ くなど
祭神、 八衢比古神、八比賣神、 久那戸神、
ほらど
祓戸神社
おつひめ いぶきど さすら
祭神、瀬織津姫神速秋津姫神、気吹戸神、 速佐須良姫神、
熊野神社
いざなぎ
祭神、伊邪那岐命、伊邪那美命、
五皇子神社
まさやあかつかもはやひあのをしほみみ あまつひこね いくつ くまねくすび
祭神、正哉吾勝々速日天穂耳命、天穂日命、天津日子根命、活津日子根命、 熊野久須毘命、
立田神社
しなつひこ
祭神、志那津比古神志那津比賣神、
境内並に史跡
宮岡清水
ひめ
伊丹清水町にあり。往昔の当社境内西北隅に位す。 聖宝巨勢金岡に命じて、当所の景色を絵図に襖(うつ)さしめんとし、
その用ふる水をここに求むと。 清泉々(こんこん)と湧出して今に絶えず。
三本 松
宮崎町に在る小字なり。名所図会に「天王松は金剛院の西方に今も切株あり」と見ゆる地にして、樹
昔の野宮境内地たり。 天王町の南に接し、 宮崎町と称するも深きあり。
※ 相殿社内には 上記の六社の他、稲荷神社、櫻﨑神社、八幡神社の三社が御座います。詳細は確認中です。
(稲荷神社が重複しているので、非常に古い資料の為、後に稲荷神社が移動されたのではないかと思われ、
現在の相殿社は正確には全部で八社に統一して確認することになりそうです。)